より善く生きたある人の死が教えてくれたこと

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岩間ひかるです。

2023年の夏は、2年ぶりにサハラに長期滞在しました。
今年は6月の下旬に”イード・アル・ケビール”というイスラムの重要行事があるのに合わせて、
子どもたちの学校も早めに夏休みに突入したため、6月下旬から8月中旬までの長い間サハラにおりました。

これだけ長く滞在するのは、パンデミックの間 Jardin Kotori camp で
疎開生活をしていた2021年以来です。

夏のサハラの毎日は、午後は暑くて日が沈む頃までゴロゴロしている以外為す術無しです。
私は今回の長い夏のお供に、星野道夫さんの『旅をする木』を持ち込みました。

私は砂漠の民の叡智を言葉で伝えたい

本に書かれている、見たことのないアラスカの情景。荒々しい大自然。
知らない文化とそこに暮らす人々。彼の目線を通して触れた世界が、
彼の感性で紡がれた言葉をとおして私の頭のなかにイメージされる。

読み終わった時、
やっぱり私はサハラに居る方が楽しいな
と思った。

風の変化で季節をさとり、大気の熱で暦を感じ、
少し安心と快適を得るにはどう工夫すると良いか。
そういうことをサハラから学びたいし、私にとってそういうことが楽しい、そう思った。

その時、私にはとても近くにその先生が居ることを思い出した。
夫のアリのご両親だ。
お二人ともベルベルの血を引く、生粋の砂漠の民です。

怒っていたあの頃と変化した気持ち

Jardin Kotori camp で義理家族ともども集団疎開生活をしていた頃、
私は怒っていることが多かった。

それは、これまでの自分の仕事が止まったことに対する混乱と、
まったく思考が異なる義理家族に対する苛立ちに起因する。

収入が途絶えたにも関わらず、それでも私たち夫婦が家計を支える以外方法が無いという現実と、
この後に及んで頼られることへの苛立ち。
なぜ自分で立とうともしないのか?という怒り。

やがて時が経ち、パンデミックの終盤に我々一家は
Jardin Kotori camp を離れてマラケシュに戻った。

我々がマラケシュに戻ってからは、マラケシュからJardin Kotori camp にお客さんを送るという
関わり方に変化したが、キャンプでお客さんをもてなしてくれたのは義理家族だった。

お出迎えをして、お料理を提供し、音楽を奏で、アットホームなおもてなしを義理家族がしてくれた。
こうして、持ちつ持たれつの関係に変わっていった時、
いつしか私の心にあった彼らへの怒りの気持ちは消えて感謝とともに穏やかになっていった。

人は役割があれば、こんなに輝けるんだ。
あの頃は単に、役割がなかっただけ。
私たちはお金を稼ぐ役割だった、ただそれだけのことだったんだ。
そう思えるように、気持ちが変化した。

自分の気持ちのバイアスが取れたら、目も耳も開いたような気がした。
今まで見ようとも、聞こうともしなかったことに、関心を持つ準備が整った。
それが今年に入ってからのことだった。

だからこの夏、改めてサハラに暮らす人々の叡智を知り、言葉で紡いで行きたいなと思った時に、
すぐ近くに最良の先生が居ることに気付いたのだ。

この意気込みを口に出し、Facebookで文字にした。

その日の夜に、義父が亡くなった。

突然おとずれた別れ

ちょうど遅い夕飯時。
この日は、レバーの串の炭火焼きだったので、
私は残り火で焼きおにぎりをするためにおにぎりを握った。

男兄弟たちも揃い、焼けた順に串を手に取り頬張る。
私がおにぎりを焼いている時に、義父が苦しみだした。

義父はもともと喘息持ちなので、呼吸が苦しくなることがあった。
今回もよくある発作かと思っていたが、苦しむ時間が長く、吸引機を使っても改善しない。

周りが焦りとパニックに包まれる。
義父の意識が遠のく。
人工呼吸をし始める。

病院に運ぼう!と弟が言う。
兄が急いで車を動かし、義父と弟2人を乗せて発進する。

残された姉妹が泣きながらあてどもなく闇に向かって歩き出す。
娘と息子もついていってしまう。

夫が、兄の車のエンジンをやっと始動できたので、
まずは歩き出してしまった女子どもを連れ戻しに行く。
暗闇のなか娘が泣きながら「こわい」と口にする。

いったんキャンプへ戻って、ここで待つように伝え、
私と夫も先発の車を追いかける。

ここは砂漠のほとり。いつもなら素晴らしいと感じるこの立地に、
この時ほど孤独と絶望を覚えたことはない。

町に、病院に遠すぎる…

ハンドルを握る夫も混乱している。
私は、大丈夫、お父さんは死んだりしない!と励ますことしかできない。

途中で先発の弟と連絡が繋がり、
義父は呼吸を取り戻したと聞いて心底安堵した。

先発の車が到着したメルズーガの診療所に私たちも着くと、
中では慌ただしく義父を移送する準備をしているところだった。
義父の胸は動いていて、呼吸はしていた。
ただ、顔が紫色だった。

診療所では治療ができないから、2時間先のエルラシディアへこれから救急車で
移送するとのことだった。救急車に兄が付き添い、弟私たちは救急車の後を追う。

車を走らせて少し、隣町を出たところで救急車が停止していた。
何かと思ったら、義父が車中で息を引き取ったところだった。

医者までたどり着いたからもう安心、その期待は粉々に砕け散った。
義父は救急車のストレッチャーの上で動かなくなっていた。

兄はそのまま義父と一緒に、死亡手続きなどのためにエルフードへと向かった。
暗い道端に取り残された我々。
突然の別れに泣き叫ぶ男たちの背中をさすり、気の済むまで泣かせてあげるくらいしか
私にできることはなかった。

男たちが少し落ち着いてから、再びキャンプに戻って
義母と姉妹に義父が亡くなったことを告げる。
娘と息子はまだ幼いが、これまで何度も愛犬や愛猫の死に接していたので、
彼らのおじいさんが亡くなったということをなんとなく分かったようだった。

弔問に訪れる人を受け入れるため、弟1人と私以外の全員を乗せられるだけ乗せて
夫は自宅のあるリッサニへ向かった。

既に日付けが変わって真夜中だった。
夜ご飯の片付けをして、犬や猫たちに長い不在の備えをしてから
翌朝早くに私と弟も出発しようということになった。

少し眠ろうと試みるものの、今夜の恐ろしい情景が浮かんできて、
全く眠れないまま空が白み始めた。

昨夜のことは全て夢だったら、と思ったのだが、
昇ってきた太陽が、あれは夢ではなかったと突きつけてくる。

私がリッサニの自宅に着いた頃には、既に多くの弔問客が訪れていた。

弔いの儀

モロッコの特に田舎の方では”家族”と括られる集団が巨大だ。
私の夫も兄弟が多いし、もちろん義両親も、もれなく義祖父母も兄弟が多いので、
その子孫となると、末広がりの大人数になる。

親族の方は、お茶をいれたり弔問客を案内したりと、働いてくれていた。
私たち夫婦はモロッコでは大きな結婚式をしていなかったこともあって、
これだけ多くの親類に会う機会がこれまでなかった。

なかには過去に私が会ったことがある女性がいたが、会った当時はまだ子どもだったのに、
今や結婚して子どももいるお母さんになっていた。
まぁ、会ったのは20年前なんだから不思議ではないか。

こういった大勢の人が集まる場所のしきたりで、男性の空間と女性の空間は分けられる。
こういう時、自宅の隣近所の家族は家を空け渡してくれるのが習慣のようで、
隣の家が男性用に、反対隣の家が食事の煮炊きの場所として使わせてもらった。

そのため私は女性たちの空間で、誰が誰だか分からない状態で、
かけられたお悔やみの言葉に対してなんと返せば良いのかよくわからぬまま過ごしていた。

交わされている会話の内容はよく分からないが、一家の主であり長男であった義父が、
誰かにとってとても大切な大きな存在であったことだけは、ちゃんと伝わってきた。

午後になりお祈りの時間を告げるアザーンがなると、男性弔問客は近所のモスクへ出かけていった。
そして夕方の祈りが終わると、義父の遺体が隣町からやってきた。

男性たちが担いで、埋葬の儀へと向かう。
女性は埋葬の儀へは行かないので、ここが最後のお見送りとなる。

夫は勇敢な人だが、こういう場面ではめっぽう弱い。
本来持っている優しさが全面に出てきてしまって、足が竦んでしまうタイプだ。
だから父の埋葬も、一人では立ち向かえないだろうと思った。
とても悲痛なことだが、彼がこの場面に直面することが大事だと思ったので、
私と子どもは夫の応援のために一緒に行くことにした。
もし私がモロッコ人だったら許されない行動だったかもしれないが、
外国人嫁だから許してな。

義父を担いだ集団は、リッサニの中心にある古いカスバへと向かう。
カスバの前で集団礼拝をした後、墓地へ向かう段階になった。

男たちはここでひときわ声を張り上げコーランを唱える。
とても神々しくも悲しい声が町に響く。
それはまるで、義父の魂を天高く押し上げるようであり、
悲しみで墓地への歩みを止めてしまいそうな自らを鼓舞するような、
力強くも悲しい響きであった。

墓地に到着する。夫がここからは自分で行けると言うので、
私と子どもは離れた場所で待つことにした。
参列の男たちに囲まれた墓地の一部で土煙があがる。
そうしてしばらくの後、男たちは散り散りに墓地を去った。

モロッコに住んで9年、誰かが亡くなる場面に初めて居合わせた。
ムスリムの人がどういう死生観を持っているか、この場に面して初めて知った。

“彼は我々が元来た場所、アッラーの元へ帰ったのだよ”
“悲しむことはない。また天国で会えるから”
“今は悲しいけれど、この道はいつか我々も通る道”

お悔やみのこういった言葉の中に、イスラムの死生観を垣間見た。
痛くて悲しくて仕方なかった状況で、彼等のことばが柔らかい光をさしてくれた気がした。

美しい去り際

突然の義父の死。
おそらくいちばん驚いていたのは、当の本人の義父だったと思う。

しかし冷静になって振り返ると、突然の死さえも、
全て整えられたような最期だった。
なぜなら

ふだんはマラケシュで暮らしている我々一家がサハラに滞在中のタイミングで
亡くなるちょうど1週間前に、義父が音楽祭のステージに上がって部族の歌を披露し、
表彰される姿を私たちも観に行っていて
ちょうど砂漠にいた家族全員が揃って、モロッコでは祝いのシーンに食べるレバーの串焼きを食べてる最中に

義父と突然の別れという最悪の事態だったが、
この上ない最良の条件のなかで起きた出来事だった。
まるでこうなることを図っていたかのように。

亡くなってすぐの頃は、あの時診療所でまともな治療ができていれば…
そんな声が兄弟からは上がっていたが、
私はこれが義父のタイミングだったのだと思う。

もともと砂漠の集落に生まれ育ち、義母と結婚して子どもをたくさん授かり、
化石採掘をしながら家族を養ってきた。お世辞にも裕福とは言えない家庭だが、
家族全員心に淀みなく、誰のことも妬まず、とても気のいい家族だ。
人として素晴らしい心持ちに育ったのは、義父母の人柄によるものが大きい。

だから、義父の人生は素晴らしかったのだと思う。
最後の最後に、とんでもない悲痛を辺り一面に撒き散らしたが、
より善く生きたのだと思う。

もしまだ私の心を怒りが占めていたころに、義父の死に出くわしていたとしたら、
こんなふうに思えなかった。
本当に心から、私が彼らを受け入れる姿勢が整ったと自覚したタイミングで
義父が逝ったことが不思議でならない。

私の気持ちが満ちるのを待っていたかのようなタイミングだった。
逆に、私の気持ちが満ちたことが彼を逝かせてしまったのか?とも思ってしまった。

血の繋がった親族が義父を信頼し、慕うのは当然のこと。
しかし私のような、血族のはるか遠いところから嫁に来た存在から信頼される、
これは義父が願っていたことだったのかもしれない。

気付くのにうんと長い時間がかかってしまった。
夫に出会って21年、結婚して17年。
本当に遅くなってごめんなさい。

大切な家族を失った悲しみは、家族と過ごす時間でしか癒えない。
彼亡き後の義理家族が元気を取り戻すように、私にできることをしていこうと思います。

砂漠で生きる者は、人間だろうが動物だろうが、ある時フッと居なくなってしまう。
そういう印象がある。

まるで呼吸するのと同じように次の瞬間に死んでいる感じ。
生と死の間の境界線はとても曖昧で、いつだって死がすぐ隣にいるような感覚。
かといって悲観的に生きるのではなく、だからこそ毎日をより善く生きることが大切だと。

向こうの世界へ渡った義父は、死から3ヶ月が経った今、
穏やかな気持ちで自分の肉体が無い事実を受け入れるようになったらしい。

Jardin Kotori camp で暮らしていたとき、毎日夕方になると
義父は砂丘の上から遠くを眺めていた。
きっと向こうの世界でも同じように、眺めていた景色のように穏やかな場所にいるのだろう。

お義父さん、こちらのことは基本的に心配要りません。
でもちょいちょい家族間の問題が相変わらず起きたりするので(笑)、
あまりに酷い時は誰かの夢に出てきてヒントをください。

どうかこれからも見守っていてください。

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